三昧塚古墳基本情報
三昧塚古墳 |
場所:茨城県行方市沖洲458 -2
墳形:前方後円墳
製造時期:五世紀後半
大きさ:全長85m 高さ8m
**トイレがないので、緊急時は古墳前の道路を少し行くとあるコンビニに駆け込みましょう
弥生時代
弥生時代は一転遺跡の数は激減する。加茂荒内遺跡や井上4号墳覆土中から出土した弥生土器や手賀古墳群域の土器片程 度しか発見されていない。三昧塚古墳が位置する地域は関東でも比較的多くの古墳が築造されたことで有名である。しかし測量またはは靴調査がさ れた古墳は多くなく、古墳編年をはじめとする諸研究に十分な情報を提供しているとは言い難い。
玉造周辺に分布する古墳のうち最も古いと思われる古墳は三昧塚古墳から南東方面に焼く1km、玉造町沖洲に位置する 勅使塚古墳である。標高20mの低い台地の縁辺に立地する全長64mの前方後円墳で後方部墳丘より下より検出された 木棺直葬の内部者主体からは倣製重圏文鏡、ガラス製小玉、緑玉製管玉、鉄拳が出土している。
4世紀
墳丘に外表施設は認められないが後方部の裾にめぐる溝状遺構より底部穿孔壺形土器が、また後方部墳頂からは器台、高 杯の土器が検出された。こうした内容から4世紀後半の時期の築造と思われる。沖洲にはこの勅使塚古墳を含め三昧塚古墳、大日塚古墳などが存在し沖洲古墳群を形成している。
5世紀
5世紀に入ると石岡市域から南東方面に向かって伸びる舌状台地の先端に舟塚山古墳群が形成される。舟塚山古墳、府中 愛宕山古墳の大型粉を中心に25基以上の古墳から構成されている。この2基以外にも平足塚古墳、天王塚古墳、大日塚 古墳といった90m級の大型古墳の存在が伝えられているが現在は殲滅している。主墳の舟塚山古墳は恋瀬川の北岸標高20m前後の台地南縁辺に築造された全長186mの前方後円墳である。
5世紀後半以降、園部川河口付近と出島半島北岸に比較的大型の古墳がいくつか出現する。
ここで三昧塚古墳が登場する。全長87m、外表施設として形象埴輪、円筒埴輪、盾形の周堀がめぐる。後円部には箱形 石棺が出土し馬飾付金銅製透彫冠をかぶった1体の遺骸が伸展葬*1されていた。
*1体を伸ばした状態で埋葬すること。
石棺からは櫛、金銅製垂飾付耳飾、青銅製飾金具、金銅製半球飾金具、碧玉製管玉、ガラス製丸玉、平縁変形四神神獣 鏡、変形乳文鏡、鉄刀、鉄剣、刀子、鉄鏃、拄甲などが出土している。
さらに石棺北東側に位置する長辺2.06m、短辺0.42mの長方形区画には鉄刀、刀子、鉄鏃、横矧板鋲留短甲、横 矧板鋲留衝角付宵、拄甲、鉄地金銅張f字形鏡板付轡(えふじがたかがみいたつきくつわ)、鉄地金金銅製繋金具、鉄 斧、砥石が整然と配列され、あたかも木棺に収められていたかの状態であった。
こうした方由奈副葬品は県内ではまれで他に類を見ない。
出土品から三昧塚古墳は5世紀末の築造が考えられる。
特異性で言えば、ほかの古墳は台地上に築造されているが、三昧塚古墳は低地に築造されたという点で変わった古墳であ る。
しかし、大井戸古墳と妙見古墳は玉里村下玉里大井戸の沖積低地に築造されている。また要害山1号墳も100m級の大型前方後円墳で、園部川流域の沖積低地に立地している。
現存する古墳以外にも沖積地に築造された古墳があったと思われるが築堤工事その他によりなくなったと思われる。
出典:三昧塚古墳第3次発掘調査報告書霞ヶ 浦沿岸、丘の上にある古墳公園です。
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