上侍塚・下侍塚古墳|栃木県太田原

上侍塚・下侍塚古墳はは「先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。控えい。控えーーーーい」でおなじみの水戸藩の第2代藩主・水戸光圀が調査した古墳として有名。「考古学」という概念がなかった時代に、発掘、調査、埋め戻し、保存までを行っており、現代の考古学者たちをうならせている。

上侍塚古墳

名称: 上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)

場所:  〒324-0403 栃木県大田原市湯津上

墳形:前方後方墳

製造時期:4世紀末頃

大きさ:全長 約 114.0m 後方部 長さ 60.5m 幅 約 58.0m 高さ 約11.5m 前方部 長さ 53.5m 幅 約 52.0m 高さ 約 6.5m

国指定史跡

上侍塚古墳
上侍塚古墳

 栃木県内の前方後方墳では、足利市の藤本観音山(ふじもとかんのんやま)古墳に次いで第2位の大きさを誇る。

ーーーーー現地案内板より抜粋ーーーーー

上侍塚古墳は、那珂川右岸の段丘上に位置する前方後 方墳で、那須地方に分布する6基の前方後方墳のなかは 最大規模を誇る。

本墳は、元禄5年(1692)、 徳川光圀の命により小口村(那珂川町小口)の庄屋であった大金重貞らによって、下侍塚古墳とともに発掘調査されている。 北方 1.5kmで発見された那須国造碑の碑文内容と侍塚の被葬者との関連を探るため行なわれたもので、日本における最初の学術調査として特筆される。

鏡(捩文鏡か)・鉄鏃・石釧・小札・鉄刀片・管玉 土師器高坏などが出土したが、碑文との関連は明確にならず、遺物は絵図にとるなど調査結果を記録したうえ松板の箱に収め、もとの位置に埋め戻した。 また調査後は、墳丘の崩落を防ぐため松を植えるなどを行なっており、遺跡の保存に関しても、 見事な処置を実施している。

ーーーーー抜粋ここまでーーーーー

  

埴輪が埋まっている


下侍塚古墳

名称: 下侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)

場所:  〒324-0403 栃木県大田原市湯津上670

墳形:前方後方墳

製造時期:4世紀末頃

大きさ:全長84m、後方部長48m、後方部幅48m、後方部高9.4m、前方部長36m、前方部幅36m、前方部高5m

国指定史跡

下侍塚古墳

上侍塚から約750mほど北上するといる。下侍塚古墳は上侍塚古墳に次ぐ大きさ。

土師器などが出土している。
下侍塚古墳の案内板
下侍塚古墳の案内板







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