権廟山古墳|大阪府堺市の前方後円墳

ホーム > 古墳探訪記 > 大阪府の古墳 権廟山古墳 基本情報 名称:譽田権廟山古墳(ごびょうやまこふん) 場所: 〒591-8036 大阪府堺市北区百舌鳥本町1丁20−1 墳形:前方後円墳 築造時期:5世紀ごろ 大きさ:墳頂203m 被葬者:不明。宮内庁により第15代王人天皇に治定されている 内豪が国指定 ※近くにある宮内庁によって応神天皇量に治定されている「譽田 権廟山古墳 」とはちがうので注意 周辺環境及び詳細 御廟山古墳は大阪府堺市北区百舌鳥本町にあり、前方後円墳の形状を持つ古墳です。この古墳は百舌鳥古墳群の一部であり、内濠は国の史跡に指定されています。具体的な被葬者は明らかではありませんが、宮内庁によって「百舌鳥陵墓参考地」として治定されています。 御廟山古墳は百舌鳥古墳群の中央に位置し、墳丘の長さは約203メートルで、4番目に大きい古墳です。墳丘は3段に築かれており、南側に造り出しもあります。過去の発掘調査では二重濠が存在したことが確認されています。陪塚はいくつかあったとされますが、現在は万代山古墳のみが残っています。主体部の構造や副葬品などについては不明ですが、現在は宮内庁によって陵墓参考地として指定されています。 2008年には墳丘の崩落補修や倒木の撤去などの工事が行われ、宮内庁と堺市が管理区域ごとに発掘調査を行いました。その後、一般公開が行われました。測量により、従来の全長が約186メートルとされていたことが約200メートルであることが確認されました。また、江戸時代前期には環濠が農地用水の溜池として使用されており、環濠の拡張工事によって墳丘部が一部削られていたことも明らかになりました。 古墳ギャラリー 円墳側 方墳側 車止めが埴輪と前方後円墳 アクセス 電車・バス/JR「百舌鳥駅」徒歩5分 一緒に回れる近くの古墳

上野公園の古墳と幕末史跡をたどる旅


上野公園の古墳と幕末 

本日のコース:摺鉢山古墳→彰義隊慰霊碑→徳川慶喜公墓所→寛永時古墳がある。 
あまりにも自然にそこに存在しているので、人々は気がつかない。 
上野公園の訪問者数を考えると、実は日本一目にされている古墳なのでは無いかと思う。
それがこちら。 鉢山古墳摺。
摺鉢山古墳|東京都台東区上野
擂鉢山古墳

「あ~はいはい。あそこね。」と上野公園に何回か行ったことのある方の中では思い当たる方もいるのではないでしょうか。

摺鉢山の詳細はこちら>>

摺鉢山古墳の墳頂
石のベンチが置いてあり、いこいの広場になっている。しかし外の賑わいに比べれば、墳頂はあまりにも静かです。
上野公園という何時でもにぎわっている最高の立地にある古墳でさえ、人がいません。
公園の喧騒に疲れたら、登ってみてはいかがでしょう。

彰義隊慰霊碑

彰義隊慰霊碑は古墳近く、西郷隆盛像の裏側にあります。
彰義隊戦死者慰霊碑
倒幕の功労者像と、幕府の為に戦い散っていった方々の慰霊碑をこんなに近くに作らんでも・・・と思ってしまいます。そんな彼らが義をささげた人物。
15代将軍慶喜公の墓所へ向かいたいと思います。

慶喜公の墓所は数多くの有名人が眠る「谷中霊園」の中にあります。
向かう途中に上野公園の国立科学博物館裏にある、寛永寺の旧本坊裏門をぱちり。
彰義隊と新政府軍が激突した上野戦争の舞台になった場所です。
当時の弾痕が残っています。
【寛永時 旧本坊裏門】

では谷中霊園へ。

谷中霊園

上野公園から谷中霊園までは徒歩5分程度です。
しかし慶喜公の墓所へ行くまで大分迷いました。

地図はあれども墓・墓・墓で自分が何処にいるのか全く分からん。

1時間迷った末、やっと「徳川慶喜の墓」なる矢印版を見つけ順序通り進みます。
やっと会えたね慶喜公!がこちら↓↓↓

徳川慶喜墓所

柵で囲まれているので入れません。神式なんですね。近所の幕末好きらしきおじさんが(ボランティアの方だったらすいません)、観光に来たマダム二人を捕まえて熱心に語っていました。

慶喜公が、鳥羽伏見の戦いから戻り(逃げ戻り?)自主的に謹慎した寛永寺へ参ります。

号は東叡山寛永寺円頓院。幕末の頃は、今の上野公園全部がお寺の敷地だったそうです。かなり広大な敷地ですね。さぞ権勢を誇っていたのでしょう。

寛永時根本中堂横にある上野戦争絵図(複写)

寛永時の御朱印。
徳川葵の紋がまぶしい!

以上、上野の古墳と幕末史跡巡りでした。
上野にはほかにも岩崎弥太郎邸や円通院などまだまだ見所があります。
また、ご紹介したいと思います